=伝統和本でつくりました=

  おきなわ民話の旅


                 内容見本 2012年4月三版

 

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            内容目次

               

1.波照間島のお話 :南方の楽土・南波照間  天火降り島が燃えてなくなった話

2.与那国島のお話:島に人が住むことになった話  イヌガン

3.八重山のお話 :安里屋のクヤマ  仲筋ぬヌベマ  鱶に助けられた男

4.宮古島のお話:夢で聞いた話  漲水嶽 津波の悲劇

5.おきなわ島のお話 :琉球とは 与那城の幽霊船 首里金城の幽霊屋敷キジムナーに    魂を取られた漁師

6.奄美のお話 :トバヤムチャカナ 白い風呂敷を背負った女 今女のお話


 こんな内容です!ちょっとのぞいて下さい。=本当は縦書きです= 

 

波照間島のお話   =本文12頁から14頁

       南方の楽土・南(はい)波照間(はてるま)  

 波照間(はてるま)島は沖縄首里(しゅり)の支配下にありましたが、年々人頭税(にんとう

ぜい)と呼ばれる税が厳しくなり、人々は苦しみの極(きわみ)にありました。当時おきなわは

中国の年号を用いていましたが、順治(じゅんじ)五年(中国の年号で一六四八・日本では

江戸、家光の時代に当たります)のこと、屋久(やく)村のヤクアカマリは人々の苦しみを見

て、何とか窮状を救いたいと思い、ひそかに船を走らせて南の海上に楽土はないか、と探

していました。ある日のこと、揺れ動く波間に美しい島を発見し、そっと漕ぎ寄せました。立

派な楼閣(ろうかく)が建ち並び、まるで仙人のような人々の住む島でした。彼はさっそく、こ

の島を「南波照間(はいはてるま)」と名づけ、波照間島に戻ると、人々にこの島に住もう、と

勧めました。 

 ある月のない夜のこと、老人や子どもを含む男女五十人が闇夜(やみよ)に乗じて波照間

を脱出し、南波照間行きを決行しました。役人に見つかってしまえば、処刑はまぬがれま

せん。みんな息をひそめての脱出です。船に乗り込み、縄を解き、さて帆を揚(あ)げようと

した時です。一人の女性が鍋(なべ)を忘れてきた、と叫び、船を下りると、すぐに戻るから、

と言い残して鍋を取りに島に戻っていきました。

 船に乗った村人は今か今か、と女の帰りを待ちますが、なかなか姿が見えません。次第

に潮が引き、風向きが悪くなってきます。漆黒(しっこく)の空に鮮やかに光を放っていた星

も、いつしか光があせてきます。うっすらと白みだした中に島影が淡く村人の目に映り始め

ました

 「おい、船を出せ!これ以上は待てない」

info-m3.jpg (52687 バイト)EMIKO

 この一声に船は帆を揚げ、次第に陸から離れていきました。船に乗った村人の頭には楽

土の姿がくっきりと浮かびます。  一方、陸に戻った女は鍋を手に海岸までやってきまし

た。しかしそこには船の姿はなく、はるか沖を南に向かって進む船影が見えるだけです。

女は必死になって、船を戻すように叫びました。しかし、無情にもただ船影は一刻一刻小さ

くなり、しだいに消えて行きました。絶望した女は髪をかきむしり、着物を引き裂いて、狂っ

たように手にした鍋で砂をかき捨てて、とうとうその場に倒れてしまいました。この場所をナ

ベカキと言っています。  おそらく船に乗って南に向かった島人は、南の楽土、南(はい)波

照間(はてるま)に着いたことでしょう。  

  これは、島ではむかしから語られていたお話ですが、岩崎卓爾(いわさきたくじ )の『ひ

るぎの一葉』(大正九年刊)で広く知られるようになりました。 岩崎卓爾は宮城県の出身

で、石垣島に測候所ができると、明治三十一年志願して渡り、昭和十二年五月島で亡くな

るまで四十年間島で 暮らした人物です。台風の通り道で貴重な気象観測をしただけでな 

く、島の文化を内外に紹介したりしました。「天文屋の大主前」(うふしゅーめー )な どと呼

ばれ尊敬されました。

 


  内容見本2

 

首里金城の幽霊屋敷− p45から49

  info-m2.jpg (20400 バイト)ガジュマルの木

 金城村の外れに年老いた母と二人で暮らす青年がいました。家は貧しく、何とか役人の

登用(とうよう)試験である科(こう)に合格して、母を楽にしてやりたいと、毎日勉学にいそし

んでいました。そうしたある日、友人に誘われ、おきなわの遊郭(ゆうかく)である辻(ちじ)に

遊びに行きました。

 おきなわではジュリ(尾類)と呼ばれる遊女たちが男の甘心をかっていましたが、初めて

踏み入れた華やかな世界に、青年はただ黙って、冗談の一つも言うことができません。そ

うしたジュリの中にウサグァーという女性がいました。その夜二人はともに過ごしたのです。

 青年は初めて過ごす女性の優しさに心引かれ、またウサグァーも、貧しい中で必死に勉

学に励むこの青年が好きになり、なんとか自分がこの青年を支えてやろうという気持ちに

なりました。

 それからというもの、ウサグァーは毎朝早く青年の家に行き、年老いた母を助けて朝の

食事の世話から身の回りの世話をするようになったのです。やがて献身的(けんしんてき)

に働くウサグァーのことは近所の評判ともなりました。

 「私はジュリ、あの方は士族、身分が違って刀自(おくさま)になることはできなくても、妾で

(めかけ )もいい、あのかたのお側に置いていただければ」

 ウサグァー はこう思って、ひたすら青年の合格を祈りました。

 ウサグァーの思いが叶ったのでしょうか、青年はおきなわ中から四名しか通らない難関

(なんかん)試験に見事に合格したのです。四年間の中国留学を終え、帰ってくると国の大

黒柱となり、出世は約束されています。先輩のジュリたちからもウサグァー は祝福を受け

ました。

 合格した青年の所には、いろんな人から嫁にもらってくれと、結婚話がもたらされました。

三司官(さんしかん)という大臣の娘であったり、土地の大金持ちの娘であったりします。合

格したことで有頂天(うちょうてん)になっていたのでしょう、青年はすっかりウサグァーのこと

を忘れ、貧乏じみた彼女の態度に嫌悪(けんお)さえ覚えるようになりました。そして母の注

意もきかず、とうとうある士族の娘と一緒になることを決めてしまったのです。

 

 しばらく行くことを遠慮していたウサグァーでしたが、久しぶりで青年の家に向かっていま

した。

 村外れには共同の井戸があり、女たちが水くみや、洗濯をしながら世間話をしています。

そこで、ふと彼女は青年の噂を耳にしました。それはあるきれいな士族の娘と婚約した、と

いうものです。

 ショックの余り一歩も動くことができず、しばらくガジュマルの木の下で体を隠すようにうず

くまっていました。

 「そんなはずはない。あんなに私のことを思ってくれたのに」

 ウサグァーは自分に何度も、これはなにかの間違いに違いない、と言い聞かせました。

 「そうだ、本人に確かめよう、きっとにこやかに笑ってくれるに違いない」

 彼女は勇気を奮(ふる)い起こして、立ち上がりました。東シナ海から吹き寄せる風は額の

汗を心地よく払ってくれます。大葉の芭蕉葉(ばしょうば)が揺れる小径(こみち)を曲がった

ところで、上の方からやってくる青年に出会いました。

 「あなたが他の方を刀自(おくさま)にお迎えになるというのは、本当ですか」

 青年はその場をとりつくろうとしましたが、真剣な眼差(まなざし)しはそれを許しません。

ウサグァーの手をはねのけると、

 「私はあさっての船で中国に渡らなければならず、忙しい身だ。さ、そこをどいてくれ」

 これまで見せたことのない、冷たい態度で女を押し退けようとしたのです。

 「どうぞ、お願いです。私を捨てないで下さい」

  ウサグァーは追いすがると、青年の袖を取り、正妻につけて欲しいなど高望みをしてい

るのではありません、せめて妾でも構わないので側に置いて下さい、と懇願(こんがん)しま

した。しかし、青年は「うるさい!」と一声、とうとう女を押し倒して、さっさと坂を下っていきま

した。

 

 冷たく去りゆく青年の姿を見送ったウサグァーは、ものすごい形相を(ぎょうそう )して石

畳の坂を駆け下りました。そしてその夜のことでした。ウサグァーは青年の屋敷に行くと、

庭の片隅にある井戸に飛び込み、死んでしまったのです。

 さすがにこれには青年も衝撃を(しょうげき )隠しきれません。数日後のことです。井戸の

傍らに、細い火が漂い、うとうとと眠っていた青年の前に白い衣装の女が現われ手招きを

します。それからというもの毎日現われて、とうとう青年はやせ細って死んでしまいました。

 

 屋敷は誰も住む人もいなくなり荒れ果てた後でも、しとしと雨の降る夜など、青白い炎が

立つと言い伝えられています。

                        (石川文一著『琉球の伝説集』などに基づく)


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